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2013/08/29

【1000文字小説】その声には『力』がある

声が茂樹に聞こえてきたのは十八歳、大学受験に失敗したときだった。

部屋にこもりっきりとなって落ち込んでいた。そのときに聞こえてきた。

茂樹は顔をあげて周囲を見渡した。だが、誰もいない。そもそもその声が外部から聞こえてきたのかどうかわからない。自分の頭の中に直接響いてきたようでもある。

いまだかつて聞いたことのない声だったが、不思議なことにどこかしら懐かしい感じもした。落ち着いていて、威厳に満ちた声であり、これが神の声だといわれても素直に信じられそうな気もした。

茂樹には声の正体がてんでわからなかった。ただ自分の中に少しだけ残っていた何かの力を増幅させてくれるような声だった。その言葉を聞いているうちに前向きな姿勢へと変化していった。彼は翌年当然のように合格を勝ち取ったのだった。

次にその声が聞こえてきたのは、最愛の妻に死なれたときだった。娘も生まれ、これから仕事もさらに頑張ろうと張り切っていた時期の悲劇だった。飲酒運転のライトバンに跳ねられた妻は助からなかった。

茂樹は生きていく希望を失ってしまった。生きていて何になろう。残された娘の為にもしっかりしなさい、という励ましもあったが、娘の姿を見ると、その面影から妻が思い出されて悲しいだけだった。

そんなときに声は再び聞こえてきた。大学受験に失敗したときに聞こえてきた、やさしさと慈愛に満ちた声だった。
彼はその声を聞いて、十八歳のときに聞こえてきたときと同様、徐々に、だが確実に元気づけられていったのだった。

二十年後、茂樹の勤めていた会社が潰れた。あっけなかった。

家庭をほとんど顧みず、仕事に邁進してきたのであるが、途方に暮れてしまった。マンションのローンは後二十年も残っていて、今売りにだしたとしても借金だけが残る。

茂樹に見切りをつけたように、十年前に再婚した妻が、自分の分は捺印済みの離婚届を取り出した。娘は母に付いて行く、と茂樹に対して冷たく言った。

すべてが信じられず、悪い夢を見続けているような気がした。

そんなところに、また声が聞こえてきたのだった。茂樹にとって懐かしく、神々しく、威厳のある声だった。

茂樹はその言葉を、十八歳のときにはじめて聞いてから変わっていないフレーズを、ゆっくりと自分でも何度も口に出してつぶやいた。

「前へ進め、前へ進め、前へ進め、前へ……」

茂樹は一歩一歩足を確実に前に踏み出していった。三十階建てのマンションの屋上から。(了)


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