【1000文字小説】満月の空を飛べた頃
二階の子供部屋で眠っていた五歳の静香は、何かに呼ばれた気がして目を覚ました。ベランダから満天の空を仰ぎ見ると、満月が自分を招いているような気がした。すると小柄な体がふわりと宙に浮いた。
「うわあ、すごーい」
空に浮かぶと、体は自分の思いのままにコントロール出来た。静香はちっとも怖がらず、むしろその状況を楽しんだ。そして月に向かって高く高く飛び上がっていった。
その高みから地上を見下ろすと、住んでいる町全体が地図を広げたように一望出来た。
静香は急降下してまた一気に上昇してみたり、ぐるぐると旋回してみたり、どこかに鳥が飛んでいないか空中を探し回ったりした。
小一時間ほど空の散歩を楽しんだ静香は、今までに感じた事のないほどの疲労を感じはじめ、急いで部屋に戻るとその後高熱を発して三日間寝込んでしまった。
その後も晴れた満月の日に静香は月に呼ばれるように空中の散歩を楽しんだが、その後二、三日は必ず熱を出して寝込んでしまうのだった。
ある時母が静香の夜の不在に気がついた。
熟睡していた夫を叩き起こし二人で近所を探し回ったが、二人とも見当違いの場所を捜していたのだから、静香の姿は見つからない。
家に戻り夫が警察に電話しようとしたそのとき、二階でかすかな物音がした。二人が子供部屋に飛び込むと、静香がベッドにいて寝息を立てていた。静香はそのまま三日間寝込んでしまった。
静香の体の調子が元に戻るのを待って母は静香に問い掛けた。
「静香、満月の夜どこに行っていたの?」
静香はそう言われてもすぐには答えられなかった。楽しかったという思いはあるが、霧がかかったようにぼんやりとしていて、はっきりと思い出せない。
静香は遠くを見るような目をして必死で記憶の糸を手繰り寄せていたが、それはなかなか困難な作業だった。
「空を飛んでたような気がする」
「空を飛んでた?」
「うん、思い出した。空を飛んでたの」
「いい? 静香、それは夢よ。本当に起こったことを話してみて」
「本当に起こったこと?」
「そうよ。人間は空を飛べないのよ」
「じゃあ、あたしは人間じゃないの?」
「空を飛んだのが夢なのよ。人間は空を飛べないの。いい? 決して飛んだり出来ないの」
静香はその後小学生になり、中学生になり、高校生になり、そして大学生になった。大学を卒業した後は五年ほど会社勤めをした後、職場の同僚と結婚して退社した。
静香が人間でないことは未だばれてはいない。(了)
小説家の山崎豊子さんが亡くなりました。代表作は『白い巨塔』や『大地の子』『沈まぬ太陽』等。小説を読んだだけではなくテレビでも見ました。ご冥福をお祈りします。
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