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2013/11/05

【1000文字小説】本屋で



伊東は会社からの帰りだった。地下鉄から吐き出された人込みに混じって、伊東はアパートを目指して歩きはじめたが、途中で足が止まった。引き返して駅前にある本屋へと向かった。最近は本屋へ行っていなかったので、寄ってみようと思い直したのだ。

市内で二番目に大きいその本屋には、会社帰りのサラリーマンやOL、大学生や高校生で賑わっていた。以前は午後八時に閉店していたのだが、客数の増加を見込んで午後十二時まで時間を延ばしていた。どうやらそれは成功しているようだ。

伊東は雑誌のコーナーから文庫本のコーナーへ向かった。いつも思うのだが、マンガや雑誌と同じように文庫本を熱心に立ち読みしている客がいるのが不思議だった。文庫のような活字だらけの本を立ったままずっと読んでいるなんて考えられなかった。買ってゆっくり家で読めばいいのにと思う。

学校の帰りだろうか、ブレザー姿の小柄な女子高生がいた。手に持ったバッグにゆっくりと文庫本を入れていた。緊張した面持ちもない平然とした表情だった。

女子高生が伊東を見た。目があった。女子高生は驚くかと思ったがにっこりと微笑んだ。

「見たでしょう」

「……見た」

伊東は答えた。面倒な事になると伊東は思った。何も見ていないと言えばよかったと後悔した。俺は何も見ていない、何も見ていない、何も見ていない……。しかし見たと言った。見たと言ってしまったのだ。

伊東は考える。女子高生は次に何て言うだろう。誰にも言わないでね、か。黙っていてね、か。言ったらただではおかないわよ、か。

女子高生は近づいて来て「忘れてね」と言った。

忘れてね、か。忘れてやる代わりに俺とつき合え。学校に知られたら困るだろう。親はどう思うか。だがそんな言葉は言えない。

忘れてね、忘れてね、忘れてね。伊東は女子高生の言葉を頭の中で繰り返した。そうだな。忘れればいいのだ。だが忘れられる訳がないだろう。店員が来ればいいと思ったが間抜けな店員達は商品が持っていかれるというのに誰も来ない。

伊東はその場を離れた。後ろを振り返ると女子高生はのんびりと本を眺めている。もう一、二冊手に入れようと思っているのか。伊東が店員に言いつけるなんて思ってもいないのか。

アパートに帰り着いた伊東は疲れていた。自分が何かしたわけではない。それでも疲れていた。ふとカバンを開けた。あの女子高生がいつの間にか入れたのだろうか。買った覚えのない文庫本が入っていた。

(了)

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